下の写真は、吾家の窓越しに観た九月八日の「仲秋の名月」である。毎年「十五夜」には、近くの山に行き、すすきを刈り、まだ熟していない栗の”いが”を採り、加えてお団子や枝豆を供え、お酒も盃で添える。そして満月に手を合わせる。雨の日の「雨月」や雲に隠れた「(えん)月」でもお供えは欠かさない。

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 ところで、私が子供の時分には、一年を通じて四季折々の風情に溢れる楽しみの行事が多かった。正月元旦には鏡餅を供えて初日を祝う。そして門松の設置をした。一年の始まりにふさわしい晴れやかな賑わいに満ちていた。

 三月三日は雛祭り。古びた五段飾りのお雛様を茶目(ちゃめ)といわれた広い座敷に飾った。桃の花と共に桜餅や雛あられなどが添えられた。桃の節句とも称される。

 五月五日は端午の節句。小さい乍も武者人形を飾り、母は「ちまき」を作って供えてくれた。この日は「菖蒲(しょうぶ)叩き」というものがあった。小学の高学年から中学生までだったか、、部落の子供達が集って沼地に菖蒲の茎を採りに行き、それを何本も束ねて1つの太い索状の物を作った。

 夕方になると、各家々を一件一件廻り、鬼やらい、邪気払いをするために各家の土間を束ねられた菖蒲で一斉に打ち叩く。その時に皆声を合わせて次のように叫ぶ。『五月五日のしょぶ(・・・)叩き!』菖蒲の(すが)とした香りが土間一円に広がり、身も心も洗われる様な感覚を、50年近く過ぎた今でも鮮やかに想い出す。

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 七月七日は七夕様。裏山に笹竹を切りに行き、家の軒先に支柱で立てる。そこに思い思いの短冊を吊す。初夏の夜空を仰ぎ、星数に眼をこらす。あの頃「天の川」を識って観ていたものだろうか。今となっては忘れてしまった。

 旧暦の八月十三日からお盆を迎える。初日の十三日には午前中に風呂に入り、心身を浄め、こざっぱりとした装いになり、午後になってから手に手に供物を持ち、父を先頭に弟妹と歩いて、15分ほど離れた我が家の菩提寺である、真言宗地蔵院の境内にある墓前に額づく。更に寺院内の位牌場にも参り、母が手作りした赤飯や団子をはじめ、様々のお供え物をあげる。

 お墓に供える物は線香、ローソクの他には大きな蓮の葉を裏面にして、赤飯、寒天、きゅうり、小豆、なす、トマトそしてお菓子などを細切れにして包み込み、イネわらで縛り供えたものだ。

 自宅からのお寺までの道のりは、右手には日本海が広がり、左手には田圃が続き、頭を垂れ始めた黄金色の稲穂が海風に揺れていた。

 又、十三日の夕べには先祖の霊を迎えるため玄関口に迎え火と共に、籠を吊した。そして十六日の夜半にはどこの家でも送り火としてイネの藁で小舟を作って、お盆棚や仏前に供えた供物を乗せて、家の近くの海に流したのであった。無論先祖の霊魂もこれに乗って「あの世」へと旅立って逝く・・・。

 その藁には火を灯しているから、次第に燃え広がり、沖に流され乍ら多くの火柱(ほばしら)を上げ、あちこちの海上を明るく照らし、実に幻想的な光景であった。

九月九日には重陽の節句。『古語大辞典』、小学館)に由ると、次の様に解説されている。

 「重陽の節句。菊の節句ともいう。中国では古くから丘に登って飲酒し、悪気を祓ったとされる。後に我が国に伝わり、平安時代初めから宮中の年中行事となり、重陽の宴、菊花宴が催された。」

 しかし、我が家では菊を飾るなどの節句の風はなかった。       

                20140921155657.JPG——–(其の二に続く)