十二月中旬になると「山の神」祭りといって「あび餅」と称した大福を沢山作り、山の神を模した神棚にお供えした。残りは家族皆で等分に分け合って”美味しい”を連発して頰ばった。私が子供の頃は大福など日常滅多に食べられなかったから、自分の分け前は幾つになるのか随分と気にしたものだった。
男鹿の日本海
この「山の神」とはいったいどの様な神だったのか?
前記、『古語大辞典』によると、「山の神とは、山を守り山を司る神。社祠に祭られる以前は、神は他界にあるものと考えられた。その1つが山であり、農民の実りを約諾する絶対のものだと信じられた・・・。」とこの様にある。
実家のある男鹿市女川地区は嘗て、半農半漁の暮らしぶりが多く、大概、大・小に拘わらず田畑を耕作していた。
春から秋までの種々の収穫を終えて、一年の終わろうとする十二月の半ばになって、その年の豊穣に感謝の意を込めて、山の神にあび餅をお供えしたものであろう。
既述した様に、自分が成育するころは年間を通じて、今でも鮮やかに記憶に残る程の年中行事があった。
いずれもそれらに拘わる事で神々や自然への崇敬の念を養い、又四季の移ろいを感得させ、日々の生活に潤いと喜びをもたらす先人の智恵ではなかったか。
ところで今日まで日本に伝わる年中行事の多くは殆ど中国伝来のものとされている。
しかし、前回紹介したが、西紀126年に成立した『古事記』、『日本書記』の原資料と目される『ほつまつたゑ』を読むと、大陸の文化流入以前に已に前述のような日本古来の伝統行事として確立していた事ことを明示する記述がある。それは以下の五七調の文体である。
「初日餅 天地の敬ひ
桃に雛 菖蒲に粽
七夕や 菊栗祝ひ」
(元旦には餅を供え、天地自然の神を敬う。女の子なら三月三日に桃の花を飾り、雛祭りを行う。男の子なら五月五日に菖蒲を飾り、粽を供える。七月七日は七夕の祭りを行い、九月九日は菊と栗の祝いをする。)――『検証ホツマツタヱ』今村聰夫氏訳文――
私は『ほつまつたゑ』の随所に記載されている風習や行事や文物は、日本固有の発祥として今日まで連綿と絶ゆることなく続いてきたものと信じている。
久方振りに晴れ渡った東南の夜空に皎皎と輝いている仲秋の名月を観て、日本に生まれた幸せをつくづく感じたのであった。
同時に、今後も日本固有の伝統や芸道や文化が継続することを切に願うものである。