古典鍼灸学の基本中の基本である「経絡」と「気血」について今少し記述する。経絡とは、人体の基本的構成物質である気と血の通り道を指す。経絡の内外を絶えず気血が巡りゆく事で生命活動を維持している。つまり気血の不足や停滞や偏重が一定の病気の発生に繋がっていく。
脈診とは気血の循環状態をこと細かに把握し、経絡の変動を察して病体の推移、予後吉凶を診察していくものである。
寸口脈診部は太陰肺経上にある。肺経の他に六蔵六府名のついている経脈が他に11あって、これらを「正経十二経脈」という。いわばこの正経十二経脈は、一つの「場」(時空)を現す「経緯」の「経」に相当し、体の縦のルートである。「主従や親子関係」が「同胞や友人関係」よりも厳しくシビアであるように通常は縦の系列というものは横の系列に比べてより根源的で重要と東洋思想では考えている。
ともかくも経脈は「太陰肺経」から始まって順次つながり、最後の「厥陰肝経」で一回りをし、また太陰肺経に流れ、これが終生繰り返される。
ついでこの縦のルートを結ぶ「緯」に相当する横の「絡脈」といわれるルートもある。
更には絡脈から枝別れした「孫絡」や「浮絡」というルートもあって体の隅々にまで入り込み、体全体の関係性をより密接に繋いでいる。形態的には経絡が最も深く、浮絡は皮部にまで浮かび上がっているとイメージしてよいだろう。
思考の枠組みが全く異なるが、大動脈があり、続いて中・小動脈があり、さらに続いて毛細血管があって全身の至る処に網の目のように分布している血管系をイメージしてもいい。しかしその働きは決し血管系ではない。自律神経系や体性神経系やホルモン系、リンパ系を総合したような広範無辺の概念である。
さらに「奇経八脈」という別のルートもあって「十二正経絡」の補助的役目を負っている。
また「十二経筋」といういわば筋肉や四肢の関節運動に主として係わっているルートも存在している。加えて「十二皮部」という皮毛を中心に巡るルートもある。
また「十二経別」といって前述の「十二正経絡」から分岐し、正経と平行して走るが、より深部にまで入り込み、正経が運行していない部位に組み込んで漏れのないようになっている。
結局、体の上下・左右はもとより皮膚表層から、筋肉系統、内臓、骨髄、脳髄までの深部組織・細胞に至るまで、全身隈無く巡る「流動系」である。気と血はこの経絡の内外を終生止まることなく循環する。
いずれにせよ「十二正経」がその中心であり、加えて「奇経、経別、経筋」などが、体内外からの情報を交換しつつ揺らぎ流れゆく道筋である。互いは互いの「関係子」になり、集合性をもった「複雑系」をなしている。
この循環せしめ、変化せしめる「大元」を追求し、流れゆく力や動的プロセスそのものを追い求めるのが東洋医学である。むろん対象の「静的構造」を分析し、追求することもあるが、それは究極の目的ではない。
ここで原典を繙いてみよう。『黄帝内経』(鍼灸医学大系・柴崎保三著・雄渾社)には次のように書かれている。
「およそ刺鍼治病の原理というものは、先ず経脈についての理解ということが始めであり、そしてその経脈は気血の運行の通路となって全身を取り巻いているもので、その長短その量の適否を知り、内部的には五蔵の順序を立て、外部的には六府を区別するということが必要である。(中略)
人が孕育時期の最初の生機にあっては、先ず陰陽両性の生殖の元素が一つに会合してまとまるという現象が起こる。精の発育によって脳髄が育成され、この後逐次体が形成され、骨が幹となり、経脈が通じて気血の通路となり、筋は骨格を約束して剛強となり、肌肉は牆壁となり、皮膚は堅くなり、毛髪は長じ、かくして人形は完成するものである。そして母から生まれて後は、五穀が胃に入り、脈道は全身を通じ、血氣はこの脈道に由って全身を通行して息まぬようになるのである。(中略)
経脈というものは之によって人体の正常なる生理機能ならびに病理機転の変化を示すのである。人の死生を決し、またいろいろな病気に対応して、その虚実を調和するものである。それ故に医師たるものはその道理をよく通暁しなければならない。(中略)
十二経脈はいずれも肉の間にわりこんで、ぴったりと肉にひっついて走行しているので、体の表面には現れていない。従って諸脈が皮膚の表面に浮かび上がって露出するものはみな絡脈であって経脈ではないのである。(中略)
経脈はいつも見ることはできない。その虚実は、寸口を按じてその搏動によってこれを知ることができるものである。脈が体表に現れているものはみな絡脈である。
(中略)。
蔵府あるいは経脈の病でも、奇経あるいは絡の病でもその診断の出発点は、太陰経の寸口脈を検することである。というのは、蔵府あるいは経絡の病はもちろんのこと、奇経あるいは絡の病でも、陰陽十二経脈に異常があればこそ、奇経に入ったり絡に入ったりするのであるから、やはり寸口脈診を診断の基準とすべきである。」
更に特筆すべきことを綴っている。
「天地の間、東西南北上下、つまり宇宙に存在するありとあらゆるものは悉く天地の気と相通じることによって生存しているものであるから、九州、九竅、五蔵、十二節すべて天地の気と通じるものである。」
ここでいう十二節とは人の十二経脈のことである。
また次のように述べている。
「五蔵六府と繋がり、全身を巡っている十二経脈には三百六十五のつぼがあって天地の気への通用門である。更に両眼、両耳の竅、両鼻の竅、口、前後の陰部の竅の合計九竅も直接五蔵と外界を結ぶ要穴である。」
つまり原典は「十二経絡」もその要所にある「経穴」もさらには「九竅」も天地の気とつながっていると喝破しているのである。 生体は外界と新陳代謝を繰り返す「開放系」のシステムだということを既に認識していたのである。
―「気血とは」に続く―