寸口脈診成立の所以

脈診部位の領域は、体全体の広大さからすると、せいぜい30~40ミリ程度(『難経』では1寸9分と表現)である。皮膚表層にあり、しかもこんなに狭い一部分からなぜ六蔵六府の虚実や体全体の生理的変化・病的変動がわかるというのであろうか。

伝統医学では脈診に限らず、ある一定の部分から体全体の状況を推し量り、次いで治療もなし得るという手法が数多く構築されている。

たとえば、顔色を窺って五蔵六府の変調を識り、舌の変動(舌診法)から体全体に関係する「気血・津液」の病変を推し量る。

「腹診法」では、腹だけで体全体の病変を捉え、治療も可能でもある。

「耳鍼法」、「手鍼法」も同じ原理である。

いずれも部分には全体が投影されているという経験的理解があったのであろう。部分の診察に基づいて蔵府の虚実を摑み、ひいては体全体の異変を把握する。治療を施した結果全体の異変が薄れ、同時に診察した部分の異変も無くなっていたというような経験を多く重ねたのであろう。

「蔵府経絡理論」という古典鍼灸医学の基本理説がある。

例えば肝に繋がっている「肝経」という生命エネルギーの流れている道筋が発案されている。この経絡は、「外経絡」と「内経絡」に分別される。前者には「経穴」が対応・配置されていて、比較的浅在部にあり、皮膚上から変化を察知でき、診察部分としての一面と治療点としての一面を併せ持つ。

後者は比較的深部に潜み、肝やこれに付属する組織・細胞に直接入り込んでいる。黙視できず、触れることも不可能な流れである。脈診はこの蔵府に根ざしている外経絡・内経絡を探る診察法である。

脈診によって「肝経」を中心に病的変動があるとわかったら、この外経絡上の適切な経穴に鍼灸を施し、病的変動の改善を計る。その結果自覚的・他覚的に病状が改善されれば、おのずとこのましい脈状に戻る。

一経穴の刺激が一経絡に影響し、その一経絡の変化が他の経絡にも変動を及ぼす。結局六蔵六府全体にも細大に係わらず影響が派生し、体全体も変わる。その全体の変化がフィードバックされ一部位に還ってゆく。

このように各要素は互いに「関係子」になり循環的に好影響をし続ける。生体は「連続反応系」である。

いうまでもなく人体は複数の要素からなる巨大にして細微なシステムである。人体を構成する細胞や組織や器官などの各要素は各自の規則で振る舞うが、各要素間には情報網が構築されていて相互作用が働いている。これらの要素からなる系は全体としてもある振る舞いをすることになる。逆に系全体の振る舞いは、各要素の規則や要素間の相互作用にも影響を与える。

「蔵府経絡理論」は正しく「複雑系」のシステム論である。

ところでベルタランフィの『一般システム理論』(みすず書房)には「生きている自然の基本原理は、一方は階層的組織であり、他方では開放系の特徴である。」という卓見がある。これを受けて、アーサー・ケストラーは『還元主義を超えて』(工作舎)の中で以下のような論理を展開している。

 

  • 「絶対的意味の全体や部分など、生物の分野であれ社会組織の分野であれどこにも存在するわけがない。われわれが見出すのは順次複雑性を増してゆく一連のレベルにおける中間的構造であり、そのそれぞれが逆方向に向けた二つの顔をもつ。下位のレベルに向けた顔は自律的全体であり、上位に向けた顔は従属的部分である。私は別のところ(1967年)でこのヤヌスの顔をもつ亜集合体に対し、全体を意味するギリシャ語のホロスに粒子や部分を示す接尾語のオンを付けた『ホロン』という語を提案した。

ホロンという概念は原子論とホーリズム(全包括論)との間の失われた環を補い、マルチレベルに階層化したアプローチによって、われわれの精神的習性にきわめて深く根付いている『部分』と『全体』という表現による二元的思考法にとって変わることを目的とする。」

 

「原子論とホーリズムとの間の失われた環を補う。」、「部分と全体という表現による二元的思考にとって変わる。」この二つの文章を銘記したい。

 

次に部分と全体との関わり合いを理解する好例を挙げる。

光の干渉性を利用した科学技術写真、「ホログラフィー」を思い起こしてもらえばよい。被写体にレーザー光などの光線を照射すると、反射光ができる。それと元々の光線とが重なり、混じり合っていわゆる「干渉縞」が生じる。これをフイルムに記録しておく。それが「ホログラム」である。この一見意味も無いような縞模様に、もう一度元のレーザー光を当てると、被写体の立体的全貌が再生されて浮かび上がってくる。これがホログラフィーである。

ホログラムの干渉縞が仮に半分に欠けても、全立体像が現れる。それが100分の1とか1000分の1という細切れにされたホログラムでも、レーザー光の照射によって、やはり被写体の全体像が出現する。

つまり細分化されたフイルムのどんな小さな範囲にも、被写体の全体像が焼き付いているのである。

脈診部はホログラム的存在と考えるとわかりいい。

またこうも考える。たとえば毛糸で編まれたセーターの一部がほつれて一本の糸が出ている。その端っこを引っ張ると、どんどん編まれたセーターがほどかれて、最後にはセーターそのものが姿を消し、一本の長い毛糸が残るだけとなる。一部分と思えた端くれが実は全体像そのものだったわけである。こんなイメージで理解してもよいのではないか。

現代医学でもごく微量の血液を採取し、生化学検査によって多くの病態を把握している。また尿検査をすることでやはり実に多くの疾患の予測が可能である。

さらには髪の毛一本でも性別や年齢や病的異変などが推測できるという。まさに「一即多、多即一なり」である。

ところで橈骨動脈部は、先に述べたように一つの「生物学的ホロン」といえる。体全体からみれば一部分に過ぎないが体の全体像が織り込まれている。わずか4センチ程の脈診部分には左右それぞれに「寸・関・尺」という名称が付されている。

右の「寸・関・尺」は体の右半分を窺い、左の「寸・関・尺」は体の左半分を窺う。また左右共に、「寸・関・尺」はそれぞれ上焦(横隔膜から上部)・中焦(横隔膜から臍まで)・下焦(臍から下部)という対応もされている。

つまり、左の寸部では左の上焦の状態が解ると言うことになるし、右の尺部では右の下焦がわかるということになる。

更に左右六部位には蔵府に根ざす十二経絡が対応・配置されている。しかもそれぞれは陰経・陽経という対待する経絡にも分別されている。

ついで三部それぞれには「浮位・中位・沈位」という脈の深さを示す概念も考案されていて、三部各部に対応・配置されている蔵府経絡の表層から深部の状態を窺うことが可能になっている。

このように脈診部は、左右、上下、内外に亘っていて、いわば三次元の立体構成になっており、実に広く深い複合的・階層的意味合いを持たせているのである。

一部分に過ぎないが、多くの情報を内包する部分であり、しかも下部構造から見上げると自律性をもって他の部位や全体に働きかける強いインパクトを有した全体像としての顔をもっている。

腹診部や耳診部や舌診部などでは、比較的広い領域である。だから触診してその硬軟や冷熱が感じ取れるし、見てもその色艶などが検証できる。しかし寸口部は一寸九部というごく狭量の領域に過ぎない。むろん見えはしないし、触っても固形物としてわかりはしない。それに触れる対象は皮膚や筋肉や骨というようないわば「静的構造」ではない。常に止まることなく揺れ動いているいわば「動的プロセス・リズム」を感得するのである。つまり「経絡」の内外を流れる「気血」という脈気である。

-続くー