鍼灸脈診の系譜と「寸口脈診」

 誰しも気づいているだろう。心臓以外にも体の中で脈うっている所があることを。たとえば側頭部、側頸部、手首の内側、足首の内側、足背部など随所にある。中でも手首の「橈骨動脈部」は一番触れやすい。この拍動が安静時や急激な運動後など、体の状態によってゆったり動いていたり、速くなったりする。熱っぽい時や動悸・息切れがする場合など、自分で思わず脈搏に触れて診ることがあるのではないか。

 まして今のように血圧計や体温計すらなかった古代においては、治療に携わる人なら相当注意深く「脈動」を観察したに違いない。その結果、生理的変動や病気になった場合、ある特徴的な脈の形状(脈状)になるという経験的事実を会得し、それらを集積して一定の診察体系といえるものを構築していったであろう。これが「脈診」である。

ところで「古典鍼灸学」の診察法は4種に大別されている。「望診・聞診・問診・切診」である。この「四診法」もそれぞれが1図に見るように各種の手法に別けられる。

 つまり脈診は多くの診察法の中で切診に属するごく一部分に過ぎない。だが一部分ではあるが、その包含する内容は実に多岐に及び、一つの体系をなした全体性をもっている。

中国最古の医学書といわれる『黄帝内経素問霊枢』、古典鍼灸学のバイブルの一つと目されている『難経』、世界最初の体系的脈学書といわれている『脈経』そしてそれらに範を求めて継承的に著述されてきた幾多の脈学書を繙くと、2図に見られるような2000年を優に超える脈法の歴史が垣間見られる。その一つ一つを調べると、いかに古人が脈を診る事に腐心していたかが窺い知れる。

この図にあるそれぞれの脈法は、各時代の思想的背景や治療器具の開発・普及と相俟って、時代の要請にふさわしい変貌を遂げてきた。(丸山昌朗著、『鍼灸医学と古典の研究』、創元社 参照)

これらの脈法の中で、いわゆる扁鵲流の脈法の集大成ともいえる「寸口脈診」は、実に二千年近くの長きに亘り、少しずつ手法を変えながらも、「東洋的自然観」に根ざす医学思想や脈理は絶やさずに連綿と受け継がれてきた。今日に至るまで鍼灸家はもとより、湯液家の間において実に重要な診察法として重宝されている。 

 本稿では「橈骨動脈搏動部」における「寸口脈診」に的を絞り、この脈法の意義や価値を概略述べてみたい。更に脈法の理解もさることながら、何よりもその理論的背景を識ることは、今日における世界的規模の混迷に対処する上で、一つの解を見いだせるものと信じる。それは「生命的世界観」に満ちているからである。

 1図    

myakusin1.JPG                

  2図                    

myakusin2.JPG    


「寸口脈診」が時代と場を超えて生き延びた理由

寸口脈診は他の脈法が次第に廃れる中で時代の淘汰を受けつつも、長く流布・活用されてきた。その主な理由を列挙する。

1,他の脈法に比べ、手首の両内側を走る「橈骨動脈」の搏動部だけで脈診が可能である。手間のいらぬ簡便な手法であり、それでいて多くの情報が入手できる。

2,望診・聞診・問診・切診という漢方独自の「四診法」とつきあわせて診察ができ、精度の高い診断が可能になる。

3,左右の脈診部(3図)には、「六蔵六府」に直結している「経絡」が配当されている。六カ所に及ぶこの部分の動的平衡あるいは非平衡状態を診ることによって、六蔵六府の相補・拮抗関係はもとより、生体全般の自然治癒力や病邪の侵襲具合などが推定できる。つまり生理的状況・病理的変動などが「東洋医学的」に把握できるのである。なによりも百病始生の源とされる「蔵府経絡」の「虚実」が判定できる。従って体系的・総合的な治療方針(証)が立てられるし、部分的治療箇所も推測できる。

 3図

myakusin3.JPG

 4,なお、今日の解剖学的知見もこの脈法の素晴らしさを物語る。

   皮膚から触れる主な搏動部といえば、頸の総頸動脈、脇の腋窩動脈、腕にある上腕動脈、手首の橈骨動脈、ももの大腿動脈、膝裏の膝窩動脈、足首内側の後脛骨動脈、足の甲の足背動脈などがある。これらの搏動部は橈骨動脈を除けばおおむね関節付近にあって、様々な筋腱が縦横にめぐり、神経の走行も複雑である。だから触知できるとはいっても、特に肥満体ではこれらの組織に阻まれて結構難しいこともある。

 しかし「寸口」である橈骨動脈部は様相が異なる。橈骨動脈の上流は上腕動脈であるが、肘窩の上腕二頭筋腱膜の下部で橈骨動脈と尺骨動脈に分岐する。(4図)橈骨動脈の走行は肘から橈骨茎状突起を結ぶ直線に一致している。初めは腕橈骨筋と円回内筋の間を通過し、次いで腕橈骨筋と橈側手根屈筋の間を下る。

   前腕の上方三分の二の部分では腕橈骨筋に覆われるが、下方では皮下浅く通過し浅筋膜に覆われるのみである。

   また筋肉の層が少ないだけではなく、橈骨自体の形状が、下端部は上端部に比べて太くかつ内側面はきわめて平坦にできている。

平坦な骨面にまっすぐな動脈が走り、しかも上から覆う組織が少ないとなれば脈診にはとても好都合である。しかも動脈の下にある板状の橈骨が脈動というエネルギーを逃さず、脈診は安定してなされ得る。

   また5図に示したように左右の橈骨動脈の基幹動脈は「鎖骨下動脈」である。鎖骨下動脈の成り立ちは左右で大きな違いが見られる。右では先ず「大動脈弓」から出てくるのが「腕頭動脈」である。これが胸鎖関節の所で二股に分岐する。すなわち右の頭部を養う「右総頸動脈」と右手腕に走る「右鎖骨下動脈」である。これが右の上腕動脈を経て橈骨動脈につながっていく。

一方、左では直接大動脈弓の最高部からいきなり「左総頸動脈」が立ち上がる。だから左の総頸動脈は右に比べて四、五センチ長い。同様に「左鎖骨下動脈」も直接大動脈弓から立ち上がる。

つまり右側では頭(脳)に行く動脈と手に行く動脈の元は一緒であるのに、左では頭(脳)は頭、手は手と初めから根っこが違うのである。

この構造上の違いは左右の橈骨動脈の拍動に違った様相を現す。つまりは「寸口脈診」にも大きな影響が出てくる。

4図(『日本人体解剖学』―南山堂)  

20140526091409.JPG

 5図(『日本人体解剖学』―南山堂) 

myakusin4.JPG

 ところで前記した『脈経』には、「人迎気口診」いう脈法が記されている。右の寸口部にある「気口」という部位で、病の内因(七情―精神的失調からくる病態)を推し量り、左の寸口部にある「人迎」という部位で、外感病(風邪・寒邪など自然現象に由る異変)を推し量ることが可能としているのである。前述したような解剖的差違を実際に理解していたかどうかは別として、長年の経験から同じ寸口部でも、病因の現れ方に違いの出ることを知っていたのだろう。いずれにせよ右脈は左脈に比べ脳との関係が深いと考えてもよいのではないか。古人が右脈で精神疾患に関わる「内因」を覗った慧眼に敬服する。以上の解剖学的知見も銘記しておきたい。

 陰陽論の定理

このように左右の違い、上下の違い、内外の相違など、「対待(たいたい)関係」は互いが相補性を持っていると同時に、相手の一方的突出や限界までの偏りを調整するという拮抗的関係にもある。さらには互いの本質的違いを浮き彫りにする間柄でもある。

たとえば右の脈が左より固いと解るのは左が右より柔らかいからである。右の脈が速いと解るのは左が右より遅いからである。相互の違いそのものが互いの存在を明確にする。男と女がいなければ互いはどんな存在なのか知り得ないと同じ事である。互いを知り合うことによって畢竟(ひっきょう)人間とはどのような存在かを認識することになる。

因みに古典鍼灸学の基本学説に「陰陽論」があり、五つの定理というべき内容をもつ。

第一に挙げるべき定理は、「森羅万象は陰陽の統一体からなる」ということ。陰陽とは共に「一元」から生成された「二相」である。全ての事物は陰陽の両面をもっているが、時空により一方が色濃く現れる。それによって陰陽のどちらかに分類される。つまり事物の属性を窺うことが可能となる。

脈を診たときにも陰性の脈、陽性の脈という分類ができ、つまり陰陽どちらかの偏重を知ることによって統一体たる体全体の異変を認識することができる。ここで注意が肝要である。分類は陰陽体である人間や病態そのものをよく認識するために行うのであり、分類や分別そのものが目的ではない。そこを見誤ると二項対立が生じ、一方を無視したりなおざりにする傾向が生じる虞がある。結局全体を見通すことができなくなる。

第二定理は「陰陽中に陰陽あり」ということ。第一定理を別の角度から表現したものだが、後述するケストラーの「階層構造」を考慮すると理解できる。ある統一体を構成する陰も陽もそれぞれ内部に陰陽の二要素を持っている。陰陽の統一体は巨視的に見ても微視的に見ても無限大の広がりを見せて重層的な構造をもっているということ。一局一面だけを切り取って把握すると、全体の中でのあるべき姿を見失う。

例えば沈脈という骨に近いところでうっている脈状は陰脈になる。次いで速い脈状をうっていればこれは陽脈である。つまり「陰中に陽あり」ということ。さらに脈に充実感のない虚脈をうっていればこれは陰脈となり、「陰中に陽あり、陰あり」ということになる。臨床的にはこのように陰陽が錯綜していることが多い。体に限らず現実社会はこのようなものではないか。純粋に陰のみ、陽のみということはあり得ない。むしろ一極に傾き過ぎる場合は動きが止まろうとする時であり、生命ある者の姿ではない。

第三の定理、「陰陽は相生・相克関係にあるということ」。つまり「対待関係」をいう。これについては既に述べたとおりである。

第四の定理、「陰陽は互いに一方が他方に向かって運動しているということ」これはいわゆる陰遁(いんとん)陽遁(ようとん)をいう。一方が増大すれば他方が減少する。万物は必ずこの陰遁・陽遁どちらかの過程にある。つまり一時も止まる事はない。万物は運動体であり、常に揺らぎ、変化を求めている。変化が無くなったときは死に近づく。

次に第五の定理、「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」。変化が窮まり揺らぎが限界に達すると混沌状態になり、いずれは新たなものの出現に繋がる。これを「進化」と表現してもいいのではないか。

例えば高熱が続きどんどん頻脈になっても、いずれ発汗するなどの治癒力が作動し、今度は解熱して脈は遅くなっていく。速い脈と遅い脈とは相反する状態である。つまり相の転化と捉える。こうやって自然治癒力があれば重篤に陥らずに済む。

ただし理想的脈状からいえば陰遁と陽遁を繰り返しつつ中庸を目指して揺れ動く「緩脈」こそ理想の形状ではある。

 

 myakusin5.JPG