気について  (以下は院長による空手道松濤会掲載文章です)

 

 私たちはどうしても目に見える物や手で触れる存在に頼りがちだし、信を置く傾向にある。

だが案外日常は実体の摑めぬ「気」に影響されている事が多いように感じられる。

 あれは昭和47年3月の春だから40年以上も遠い昔の事になった。しかし体感を通じて今でも鮮明に記憶している貴重な経験である。

 中大空手部の最上級生になって初めて、私は同期の中西、宮永両君と連れだって当時大田区馬込に住んでおられた江上茂師範と奥様にご挨拶のため伺候した。

 私たち三人は改めて自己紹介を済ませ、新4年生になる心構えを述べたり、今後の稽古の有り様などをご指導戴いた。

小一時間も経った頃、私は当時最も心に懸かっていた気について臆面も無く、師に求めたのであった。

 先生は暫し黙考しておられた風だったが、にわかに「船木、立ってみろ!」と語気鋭く言われた。

と同時にその大きな右掌を開いて私の胸元に突き出された。師の立てという強い口調にも拘わらず、その全身から発せられた威圧感に微動だにできなかった。師は言われた。「船木、これが気だよ!」

 sihan.JPG  

広西元信松濤館館長と江上茂師範(昭和44年夏、湯田中温泉の合宿にて)

egamitate.JPG くつろがれる江上茂師範(昭和55年春・館山の合宿にて)

 

 中国の歴史家、司馬遷の大著『史記』は歴代正史の中でも白眉と称揚されている。この中に中国屈指の名医と言われる扁鵲(へんじゃく)(そう)(こう)の列伝がある。このうち扁鵲のエピソードを紹介しよう。

henjyaku.JPG  扁鵲画像

 扁鵲が戦国の雄たる斉の桓侯に謁見した時の話である。初めて拝顔した扁鵲は時を移さず桓侯に上申する。

 「上様は病に罹っており、その病邪は皮毛の間に在ります。今治療なさらなければ、邪気はもっと深くまで侵襲致しましょう。」しかし桓侯は何の自覚症状もないので不快の面持ちで取り合わない。

扁鵲が退出すると、桓侯はお就きの者に言った。「扁鵲は病気でない者を病気だと偽り、功を立てようとしているのではないか。」

 五日後、扁鵲は再び桓侯にまみえて具申した。「上様の病は血脈に止まっております。今治療なさらなければ、更に病邪は深く入り込みましょう。」だが桓侯は言う。「余は何処も悪くはない。」扁鵲は退出した。

 その五日後、三度桓侯を垣間見た扁鵲は言った。「上様の病は腸胃の間に止まっております。今治療なさらなければ更に奥深く入り込みましょう。」桓侯は憮然とし黙殺した。

 その五日後、扁鵲は四度桓侯に拝謁したが、今度は何も語らず即座に退出した。不思議に思った桓侯は臣下を使ってその訳を尋ねさせた。すると扁鵲は次の様に述べた。「病邪が皮毛の間に在るうちは鍼や灸でも治せます。腸胃の間に在るうちは酒で煎じた薬湯でも治せます。しかし骨髄まで侵されると、人の生死を司ると言われる『()(めい)の星』の成すがままになり、人智を尽くしても如何ともし難く、治せるものではありません。上様の病はこの骨髄に入っているのですから私はもはや何も申し上げることは無いのです。」

 幾許もなくして桓侯は様々の症状が噴出し、容易ならざる病態に陥った。臣下をして扁鵲を呼びに行かせたが、既に斉の国から去り、その行方は杳として知れなかった。まもなく桓侯は病没した。

 漢方の診察法に「四診法」という手法がある。望診、聞診、問診、切診である。このうち、扁鵲が桓侯に行った望診は、顔色を中心にして人の醸し出している気を窺って病の所在や重篤度を推し量る妙技である。

maegiri.JPG 

小生の得意技、前蹴りの一瞬(昭和48年春、館山合宿にて)

 

 ところで江上師範が発せられた気は、相手を圧する「気魄」であろう。扁鵲が洞察した気は、病の「邪気」である。いずれも気に違いない。この気の概念は広くかつ深い。

 宇宙に遍満しているといわれる「(しん)()」もあれば、自然界に溢れている「浩然(こうぜん)の気」もあれば、人が生理的に自ずと有している「(えい)()()()(そう)()」もある。このように千差万別である。

 いずれも見えないし、把握することもできない。しかし、この気がなければ宇宙も自然も人や動植物もそれぞれに本来の姿形を維持する事はできないし、互いの関係性も成り立ち得ない。

 科学技術の追求はどちらかと言えば機械的で、個別分断的で、閉鎖系のシステム論を基盤とする思考をもつ。

一方我々生命ある者の究明には全包括的思考や万物における相互連関性と同根性に思いを致し、開放系のシステム論に依拠したほうがよい。人が科学に万能を求め、それに追随すればする程自己の持っている気働きは衰えがちになるだろう。

日本のみならず世界は混迷の度を益益深めている。かかる現状にあって私たちは、「機械的世界観」ではなく、気の存在を認識しうる「生命的世界観」に立脚する必要があるのではなかろうか。

新年度を迎え春風の快いこの時節に、40有余年前を振り返り、空手道にその生涯を捧げられ、常に気を探索続けられた江上茂師範と奥様に僭越ながら想いを馳せる昨今である。

20140331090042.JPG 

小生の得意技、横蹴りの一瞬(昭和48年春、館山合宿にて)